葬送の歌、祈り、罪の王冠
久々にはてなブログを更新する。
想いをつらつらと連ねたくなった。中2で知ってからもう12年、それだけちゃんと好きだったんだなとしみじみ思う。
EGOISTが最後のライブを終え、活動を終了することに最初は「そっかあ」と、残念程度の気持ちだったが、最後のライブが近づくに連れてどんどん悲しくなり、最終ライブ前日なんかはredjuiceさんのイラストを見て曲を聴きながら咽び泣いてた。
ギルティクラウンが発表されEGOISTが活動を始まって以来ずっと聴いていた、間違いなく私の青春の一部であり、私という人間を構成する一部だった。
最後のライブは結局落選続きで行けはしなかったが、それでも好きということに違いはなかった。
だからこそ、ありがとうという気持ち以外に気づいた自分の気持ちがある。
プロデュースしていたryoさんがセルマガで綴った思いにとやかくいうファン(fam)が何やら騒がしくTLに都度流れてくるせいで、せっかく綺麗な思い出となっていたものに水を刺された気分になった。SNSの弊害ともいえるだろうか。
平たくいえばryoさんとEGOISTで歌っていたchellyちゃんとの熱量の差に、すれ違いがおきてしまったことが1番なのかなと思うが、それに対して対立煽りをする愚かなファンが多く辟易してしまった。
今だから言えることだけれども私個人の考えとして、ギルティクラウンが終了してからも活動が続いた時点で少し違和感を感じていた。(ちゃんと曲だけは聞いていたが)楪いのりが思念体として世界を漂い、活動の幅を広げたことで多くの曲を発信してくれていたがそれはいつ「終わり」を迎えるのか、それがずっと気がかりだった。
葬送の歌を贈るものとして葬儀社の広告塔として、別の顔を持っていたEGOISTは間違いなくギルティクラウンの作品の一部だったため、それ以外に波及することがそもそも違和感だった。私自身変化を受容出来ないことが行けないかもしれないが、この違和感を始まりとして少しずつ足が遠のく。
コンポーザーがryoさんの手を離れることも増え、その溝は一層増していった。築き上げられてきたEGOISTのキャラクターと一致しないと感じることも増えた。
極め付けは良くも悪くも神格化し宗教のように崇拝するファンの存在に気持ち悪さを感じていった。作り上げた人がそう簡単に見限ることも手放すこともない、なのに偏ったものの見方をし、あまつさえryoさんを非難する愚か者もいて気持ち悪くて仕方がない。
EGOISTが好き、supercell(ryo)が好き、chellyが好き、色々な見方もあるがそこに優劣や善悪を考える人はお門違いだと思うし、私は分かり合えないない。全部必要で誰も欠けちゃいけない要素だと考えている。
私は、あくまでもギルティクラウンの世界観を遺したEGOISTでryoさんが手がけた曲が好きだった。もちろん表現者としてchellyちゃんの歌う曲や手がけた曲も好きだ。しかし、結局のところはryoさんありきの曲が好きだったんだなあと。chellyちゃんのさらなる飛躍のためにはEGOISTは枷になってしまう、だからこそ手放したのだと思いたい。双方の想いに、考えに否定の意はないし形あるものはいずれ失われるとすればある種廃れて消えゆくよりも個人的には良かった。
自分を作り上げた一つが終わりを告げる事に、心に風穴が空いたような虚無感を覚えててしまう。これはどうしようもなく感じてしまうが、前向きな気持ちで捉えていきたい。
私はこれからもEGOISTは聴き続けるしchellyちゃんのことを応援し続ける。
これからも好きであることに変わりはない。